読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

重箱の隅

好きなことだけ。

「頸椎カラー」と「別れの朝」2)


 明け方に松葉杖をつきながら、ヒサシがみっちゃんのところへ金の無心にやってきた。何も言わずに、一万円札を何枚かヒサシへ突きつけるみっちゃん。

・・・・・・・・・・・・・
ヒサシ:
 「(一礼し)ありがとさん」
 受け取ってポケットに入れ、みっちゃんの頬をむにゅーとつまむ。
 怒った顔のままのみっちゃん。
 もう片側の頬をむにゅーとやるヒサシ。
 みっちゃん怒った顔のまま。
 ひとしきり頬をつねると、手を離すヒサシ。
 「ほんならねや」
 去ってゆく。
 みっちゃん、見送っている。
・・・・・・・・・・・

 文字だけでは、脚本の段階では、このシーンの良さは伝わらない。監督による演出と、小池栄子加藤虎ノ介という役者の、体と声を通して初めて成立する珠玉のシーンだ。

 映画では、「なんや、その顔は」と、仏頂面のみっちゃんの顔を覗き込みながら、頬をむにゅーとつまむヒサシ(一瞬ためらうような手の仕草が絶妙!)。 


 原作によれば、ふたりの間の「ゆるしてねのサイン」だが、ローズを口説くときにもヒサシがこのサインを使っていたのを知っているみっちゃんは、この仕草をされた途端、「怒った顔のまま」というよりも、どこか悲しそうな「無表情」になってしまう。

 一言も語らず、許す事も拒絶することもしない。それは、みっちゃん自身の複雑な気持ちであると同時に、首を固定する頸椎カラーのせいなんじゃないだろうか。頷くことも首を振ることもできず、喉まで出かかった言葉も、意識的にか無意識的にか、カラーにやんわりと締め付けられて、閉じ込められてしまっているのではないだろうか。

  「頸椎カラー」に身振りと言葉を委ねた彼女にとって、この時可能な意思表示は、唯一、「目を伏せること」。

 
もし、頸椎カラーがなければ、原作と同様に、みっちゃんは「うち、ゆるさんやった。何でやろ」と思い返したに違いない。理由はわからなくても、自分の意思でヒサシを許さなかったんだと。

 けれど、脚本にもなかった頸椎カラーを使うことで(入院から時間が経っているのだから、カラーを外していてもいいはずなのに)、単なる自分の意思からの返答ではなく、頸椎カラーのせいで首を動かせなかったのだと、だから判断を先送りにしたのだという、不可抗力を掲げた「言い訳」が見え隠れして、みっちゃんの佇まいに、ある種の説得力と深みが出ている気がするのだ。

 みっちゃんが「決断」を下したことがわかるのは、次のオッケーランでのシーン。すっかり怪我もよくなったみっちゃんが外していたのは、「頸椎カラー」と「結婚指輪」。店にかかる垂れ幕には「祝・離婚記念」の文字が踊っていた。

 そんなみっちゃんに対峙するヒサシの演技もまた秀逸。仲直りの時はいつもそうしていたんだろうと、容易に想像がつくおどけ顔でみっちゃんの目を覗き込んでいたヒサシは、怒っている時もあきれている時も、愛しているときも憎んでいる時も、いつでもまっすぐに自分に向けられていたみっちゃんの目が伏せられてしまったのを見て、取り返しのつかない「何か」を感じ取ったのかもしれない。
(この数秒間のヒサシの視線の彷徨い方が絶品。カメラアングルのために確認できないけれど、たぶん目を伏せたままのみっちゃんの視線を捕らえることが出来ずに、若干傷ついているように見える。)




 バツの悪そうな、後悔とも未練とも強がりともとれるようなポーカーフェイスで、「ほなね」と一言残して立ち去るしかできないヒサシ。見送るみっちゃん。


 
 このシーンに漂う、なんともいえないやるせなさと切ない余韻は、ヒサシが松葉杖だからこそ成立する。緩やかなカーブを描く、見通しのいい明け方の海沿いの道を、松葉杖をついてゆっくりと、一歩一歩去って行く後ろ姿。振り返らないのが、男のせめてもの意地の張り方なんだろうか。みっちゃんはいつまであの場に立ち尽くしていたんだろう。去って行くヒサシを全く画面に映さないことで、逆に想像力がかき立てられるということを、改めて思い知らされる演出だ。

 虎ノ介さんがネット記事のインタビューで(→こちら)、「監督が印象的な役に膨らませてくれました」と答えたとき、彼の念頭にあったのは、メイキングや(小池栄子さんの)舞台挨拶でも話題に出た、病院での豪快な大乱闘だったかもしれない。けれど、視線と指先で語られるこの別れの演技(映画開始3分の1=30分頃)が、私にとっては残りの1時間が霞むくらい、美しくて心に残った。

 このシーンのおかげで、わたしは加藤虎ノ介という役者に出会った。もともと小池栄子さんの演技を見たくて借りたDVDだったのに。銭形警部的に言えば、「やつはとんでもないものを盗んでいきました」、だ。

 脚本は、どれほど完成度が高くとも、未だ2次元でしかない。そこに命を吹き込むのは、あくまでも肉体を持った役者であり、演出と現場の力だ。監督、スタッフ、役者、その他諸々による「共創」のエネルギーが作品を創る。
 わたしがこの映画を、みっちゃんとヒサシをこんなに好きなのは、そのことを間接的に目の当たりにしたように感じられたからなのだろう。