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重箱の隅

好きなことだけ。

おんなはみんな ほとけ である。


 港町にひとつの美容院、「パーマネント野ばら」。パンチパーマをあててもらいながら、下ネタ全開で恋にまつわる嘘や記憶を告白しあう、「女のザンゲ室」だ。原作(文庫本)の裏表紙には、「俗っぽくてだめだめな恋にもひそむ、可愛くて神聖なきらきらをすくいあげた、叙情的作品の最高傑作」とうたってある。

 この作品を貫く「俗っぽさ」と「神聖さ」が、「女という存在そのもの」についても当てはまることを、なおこの母を演じた夏木マリさんと、ともちゃんのト書きに添えられた脚本家の一言と、「役者の顔をじっくり撮ること」を信条とする監督が、映画の中で気づかせてくれる。


1.パンチパーマ 

 「野ばら」を営むまさ子(なおこの母)は、パンチパーマの名手で、オバチャンたちの中心的存在だ。原作では金髪(後にレインボーカラーの)のショートヘアにもかかわらず、映画では夏木マリさんご本人がノリノリで、見事にお似合いのパンチパーマを披露している。(どこかで、夏木さんご本人が提案したという記事を読んだ気がするが)

映画・まさこ

 


 パンチパーマと恋の関係が明らかになるのは、常連客キミちゃんのエピソードだ(原作ではジュータンパブのゆきママのエピソードだが、大幅に改変されている)。最近よく眠れないというキミちゃんの「パンチ頭をやめたい」というリクエストを聞きながら、「それは恋や」と、女優のようなショートヘアにしてあげるまさ子。後日、恋に破れたキミちゃんは、ともちゃんのダンナの葬式の後、喪服のままジャブジャブと海に入っていってしまう。それを止めにいくオバチャンたちを、「アホや」と笑って見ているまさ子。

 「パンチパーマ」は、恋にまつわる諸々の苦しさや楽しさ、きらきらとした「神聖さ」を、愛おしみながら笑い飛ばす、「悟りほとけ」の髪型なのだろう。映画の公開トークショーで、「大仏パーマ」と呼ばれていたのも偶然じゃないのかもしれない(大仏=「悟りを得た後の釈迦(如来)」にだけ許された髪型(螺髪)だ)。ただし、「野ばら」の「ほとけ」は、寺に収まって拝まれる対象ではなく、「だめだめな恋」に泣き笑いし、嘘やみっともなさを抱えて生きる「俗」な世界の住人でありながら、諦めでもなく、未練でもなく、切なくも大らかな「悟り」に至ったオバチャンたちのことだ。このオバチャン達の中心的存在である「野ばら」のまさ子を、夏木マリさん自身が、原作と違ってかっこよく決まったパンチパーマで演じているところが、またいいのだ。

 原作では、パンチパーマのオバチャン達を従えながら、喪服のまさ子がなおこたちに向かって呼びかける。

「年いったら ほんまに男がいらんなるでー はよ こっちきて 楽になりや」

原作・まさこ

 


もっとも、そうは言いながら、もちろんオバチャンたちも「悟り」っぱなしではなく、恋の記憶や小さな嘘に囲まれてはしゃいだり、時には恋に振り回されたり、俗っぽく泣いたり笑ったりもするのだが*1)


2.黒髪ボブと縦ロール 


 一方、オバチャン達ほどは悟り切れていないものの、「ほとけ一歩手前」の要素が、なおこを見守る友達二人にも与えられている。

 なおこの幼なじみ「ともちゃん」は、原作では連載第一回に登場したキャラクターだが(後半にも登場するが、高校の同級生の1人で、メインではない)、原作でのみっちゃんのエピソード(猫のぽんたの埋葬)を割り振られ、みっちゃんとともになおこを支える重要な役柄に昇格している。演じる池脇千鶴は、伸ばしっぱなしの黒髪ボブで、眉も生え放題。野たれ死んだダンナの形見のスロットコインを埋めながら、作品の核になる重要なセリフを口にする。

映画ともちゃん

 


「人は 二回死ぬがやと。
一回目は生きるのがやまってしまう時。二回目は人に忘れられてしまう時よ。」

 なおこの秘密、ラストシーンの伏線でもあるこのセリフ。海を見下ろす丘の上の草むらで、すべてを了解した上で、なおこを見つめるともちゃんの眼差しと言葉は、あまりにも優しい。原作よりも重要性が増したキャラクターに対して、脚本家の奥寺さんは、初登場の際(「野ばら」になおこを訪ねてくる)のト書きに、すでにこう記している。

野仏のような笑顔の持ち主」

野仏は、道ばたの「お地蔵さん(地蔵菩薩」だ。丘の上でのともちゃんの優しい眼差しは、はじめから既になおこに向けられていたのだ。


 そしてもう一人の友達「みっちゃん」。パンチのオバチャンたちに混ざって、「野ばら」で髪を染め、縦ロールにセットしてもらうみっちゃんは、フィリピンパブのママらしく、アクセサリーもジャラジャラと、チープで派手な出で立ちだ。いつかはパンチパーマの仲間入りをするんだろうと想像に難くない彼女は、実際、映画の終盤では、焼酎片手に「野ばら」でオバチャン達と男の話に花を咲かせている。

 


 なおこの秘密が明かされる浜辺のシーンで、浮気男のヒサシと離婚したばかりのみっちゃんが言ったセリフ。

なおこ:
「みっちゃん、私、○○ってる?」

みっちゃん:
「そんなんやったらこの町の女はみんな○○ちゅう」

なおこ:
「・・・・・・」

みっちゃん:
「えいき。わたしらずっと、世間様の注文してきた女、やってきたんよ。これからは好きにさせてもらお」

 この時のみっちゃん、小池栄子の表情が、なんとも言えず印象的だ。

 「俳優の顔をじっくり見せるということ」が「自分にとっての映画を撮る意味だ」という吉田監督にとって(→インタビューはこちら)、小池栄子という女優のこの表情は、観客だけではなく原作ファンに対しても、「映画化することに意味があった」と思わせるほどの、会心のショットだったんじゃないだろうか。

 チープに着飾って、縦ロールの髪に安っぽいティアラを付け、騒がしい店内でカラオケを歌うみっちゃんのイメージは、「俗っぽく」て「神聖」な「観音菩薩*2)

映画みっちゃん

 


「大仏=如来」が「悟りを得た」存在であるならば、「菩薩」は、「悟りを得る前」の、修行中の存在。修行中でありながら、悩み多き人々と共に歩み、教えに導く存在でもある。
 ともちゃんもみっちゃんも、恋と人生の修行中であり、その一方で迷えるなおこを見守る「菩薩」なのだ。

 大仏(パンチパーマのオバチャン)たちと ふたりの菩薩。
 
 おんなはみんな ほとけ なのだ。



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*1) まさ子も、再婚したダンナが隣のナス農家のオバチャンと懇ろになったことに腹を立て、修復不可能と悟ってはいるものの、「もうしばらくは苦しんでもらわんとね」と、離婚の要求をつっぱねていたりする。
*2) もともと、本格的に女優をする前から、バラエティで「大仏顔」とか「ウルトラマン」(←弥勒菩薩がモデルらしい)とか弄られていたし、『うるるん滞在記』でタイの敬虔な仏教徒の村にホームステイした時、お土産に持って行った写真集のページが切り取られて、各家庭で仏様のように拝まれていたこともあった。